東京から気軽に行ける温泉地である神奈川県の箱根は、美しい景色、温泉、美術館、グルメまで堪能できる魅力あふれる観光スポットだ。江戸時代から宿場町として栄えるこの地は、現在も多くの温泉旅館やホテルが旅人を迎え入れている。だが、こうした箱根の宿泊業を取り巻く環境も、時代とともに急激に変化している。そこに先手を打つべく箱根の2つの旅館が踏み出したのが、まだ予約にも至っていない前段階から顧客の心をつかむ仕組みづくりである。

旅館・ホテル業におけるカスタマー・エクスペリエンスとは
 成熟する我々の社会に起こるさまざまな環境変化に対応し、今後もビジネスの成長を持続していくためには、顧客視点に立った「コト消費」を重視し、デジタルを駆使したカスタマー・エクスペリエンス(体験)の提供が欠かせない。

 多様化する顧客のニーズや価値観にどう対応するのか、一方で近年急増している訪日外国人観光客(インバウンド)の需要をどのように受け止めていくのか。旅館やホテルを営んでいる宿泊業もまた、その大きな転換点に立っている。

 カスタマー・エクスペリエンスと述べたが、宿泊業におけるそれはどの時点から始まっているのだろうか。根幹に位置付けられるのは、顧客が宿泊した際に快適な客室・施設、美味しい食事、高品質なサービスなどから感じられる「おもてなし」であることはいうまでもない。どれだけ高い満足を提供できるかが、「またこの宿に泊まりたい」というリピーターを増やすことにもつながっていく。

 だが、実際には宿泊における体験は、長期にわたるカスタマー・エクスペリエンスのプロセスの中のほんの1コマに過ぎない。

 これまで温泉を敬遠しがちだった妊婦を積極的に迎え入れる「マタニティプラン」などの過ごし方提案で一躍有名になった箱根・芦ノ湖畔の高級旅館「和心亭豊月」の3代目支配人である杉山慎吾氏は、宿泊客が希望に合った宿を探しあてて予約にいたるまでの過程では、想像以上に多くのことを思案し、あらゆる角度から情報を収集した上で、どこに泊まるかを決めていることに気づいたという。「もちろん私どもでは従前より『予約が成立した時点から、お客様の宿泊体験が始まる』と認識しています。しかし実際にはそれよりもずっと前、選択肢になるかならないかという段階から、お客様は豊月に泊まったらどんな幸せな体験ができるのだろうとシミュレーションを始めているのです」(杉山氏)。

 すなわち宿泊業におけるカスタマー・エクスペリエンスの本質は、予約の検討を始めた初期段階から顧客の不安を払拭して期待を醸成し、旅先で「こんな体験をしたい」という潜在的なニーズ(=ウォンツ)をつかんで応えていくことにある。

 寛永七年創業の箱根の老舗旅館「一の湯」もカスタマー・エクスペリエンスに対して同様の意見を持つ。今後ますます伸びていくと予想されるインバウンド需要、さらには多様化する国内需要にも幅広く対応して新たな顧客を取り込んでいくため、一の湯は公式サイト上のFAQ(よくある質問と回答)を充実させるという戦略を打ち出した。

カスタマー・エクスペリエンスをFAQの形で提供
 一の湯は箱根の塔ノ沢地区を中心に7軒の旅館を有し、さらに2017年7月には仙石原地区に8軒目となる「ススキの原一の湯」をオープンするなど積極的なビジネスを展開している。

 実はこの一の湯の宿泊客の半数近くを占めているのが訪日外国人だ。2015年における訪日外国人の総宿泊人数は約4万人に達しており、箱根全体の約10%のシェアを占めるというから驚きだ。

 一の湯によると訪日外国人の多くは国内観光客と異なり、1年以上も前から宿泊施設を予約しているという。「そうした海外からのお客様に対して、一の湯を見つけていただき、検討し、予約し、訪日して宿泊し、箱根観光を堪能し、帰国するまでの長いスパンにまたがる有益なカスタマー・エクスペリエンスをFAQの形で提供したいと考えたのです」と一の湯で営業マネージャーを務める福岡昭憲氏は語る。

 また、現在主流のインターネット予約サイトに支払わなければならない仲介手数料のコスト負担は思っている以上に重く、「お客様と直接コミュニケーションをとりたくても、そのための広告・宣伝活動やシステム投資までは、とても予算が回らない」という声が業界から聞こえてくるのも事実だ。

 「直接顧客とつながってカスタマー・エクスペリエンスを提供できる、自前のコミュニケーションのための手段を整える必要もありました」と福岡氏はビジネス環境の現状を指摘する。

FAQは継続的な分析と見直しが重要

 訪日外国人観光客が増えたとはいえ、まだまだニーズやウォンツをつかみ切れていない部分が大きい。例えば予約を迷っている背景には、「日本の旅館はどのような料理を提供してくれるのだろうか」といった不安を抱えていることがある。

 FAQを充実させることで様々な疑問を解消するとともに、そのアクセスを詳しく分析することで、文化的なギャップから日本人には気づかなかったような事実を探り出せるかもしれない。そう考えて一の湯では、ススキの原一の湯のオープンに向けて公式サイトをリニューアルするのに合わせて、Oracle Service Cloudを導入することにした。
 「現時点では、訪日外国人のお客様がどのようなことで困っているのかが分からないため、最初のうちは的外れなFAQばかり掲載してしまうかもしれません。だからこそFAQは、運用を開始してからの継続的な分析と見直しが重要なのです」と福岡氏は話す。

 とはいえ、そうした専門知識が要求される分析ができるスタッフが一の湯にいないのも事実。「オラクルのアナリストによるサポートを得ながら、お客様の多様な属性に応じたアクセス傾向を分析したり、アクセス頻度の高い質問内容をFAQのトップに移動したりといった施策により、徐々にギャップを埋めていくことで、お客様から多くの支持が得られるFAQにブラッシュアップしていければと考えています」と福岡氏は期待する。

 一の湯のこの動きと時を同じくして、和心亭豊月もOracle Service Cloudを導入した。

 「当初はお客様にとってFAQがそれほど重要なものとは思わず、『とりあえずのExcuse』といった程度にしか認識していませんでした。しかし、私どもが想像する以上にお客様が多くの情報を求めている事実に気づいた現在は違います。宿泊業がカスタマー・エクスペリエンスを追求していく上で、FAQの充実は不可欠です」と杉山氏は語る。

 一の湯ならびに和心亭豊月が打ち出したこの施策は、伝統的な宿泊業にどのようなインパクトを与えるのか、これからの箱根がとても楽しみである。

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